1931年、イギリス議会におけるウェストミンスター憲章 において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国家の自由な連合体と定義され、イギリス、アイルランド自由国、カナダ、ニューファンドランド、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦をメンバーとして発足した。1971年に、「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である」と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった。加盟国同士では、通常の国対国のように特命全権大使を交換せず、「高等弁務官 」を外交使節長としている。
1967年に、ソエトロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデターが勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した。オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った。1970年には、母と継父のあいだに異父妹のマヤ・ソエトロが誕生する。1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンリー・ダナムとマデリン・ダナム夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫のプレパラトリー・スク−ルであるプナホウ・スクールに転入し、1979年に卒業するまで5年生教育を受けた。在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に、飲酒、喫煙、大麻やコカインを使用したと自伝で告白している。なお1972年に、母のアンがソエトロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国、1977年まで滞在する。同年、母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994年まで現地に滞在した。このあいだに、1980年にアンと継父のソエトロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995年に卵巣癌で亡くなった。以上のように、青年時代のオバマはハワイにおいて白人の母親と母方の祖父母によって育てられた。
1773年の茶法によって東インド会社の茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月、入港した船の茶を暴徒が港に投棄するというボストン茶会事件に発展した。1774年、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピットは滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地との和解をはたらきかけた。しかし、首相フレデリック・ノースは国王ジョージ3世の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。一方、1774年に13植民地はイギリスの政策に対する方策を協議するため大陸会議を開いて本国との和解の道を探ったが、打開できないままとなった。
ヨーロッパ人の入植地が年間を通した恒久的なものとなり、海岸線一帯に広がるに従い、漁撈にたよるベオスック族が生計を立てられる海沿いの土地は減少していった。ベオスック族が入植者達に殺され、飢餓と入植者の持ち込んだ疫病で激減した後の19世紀はじめには、生き残りはほんの僅かであった。植民地政府は先住民との対話を開始しようとしたが、既に遅すぎた。現在のニューファンドランド島島民は、祖先をアメリカ先住民 - その多くは大陸部に住むミックマック族 - にたどることが出来る人が多い。ニューファンドランドは、ノース人の北米入植地のうち唯一、実際の入植跡が確認されている場所である。ノルウェー人の探検家ヘルゲ・イングスタッドとその妻で考古学者のアン・スタイン・イングスタッドは、1960年に島北端のランス・オ・メドーで遺跡を発見した。長年にわたる発掘の結果、入植地はクリストファー・コロンブスの大西洋横断に500年以上先立つものと確認され、糸車や鍛冶の道具などが発見されたことから北米における最古のヨーロッパ人の居住の痕跡とされた。ユネスコの世界遺産にも登録されたランス・オ・メドーは、ヴァイキングの航海者レイフ・エリクソンが到達したヴィンランドの入植地と信じられている。ノース人は先住民との衝突を起こし、おそらく999年から1001年までの、比較的短期間しか留まらなかった。1010年ごろにソルフィン・カルルセフニもヴィンランドへ大勢を連れて入植したという伝があるが、これも短期間に終わっている。